Words 1

全身詩人、吉増剛造展と、そのパフォーマンスにて

Posted in 2016.6.27 | permalink

吉増剛造さんと飴屋法水さん。パフォーマンスの内容云々の前に、吉増さんや飴屋さんがこの世界を生きている姿そのものを見て、記憶しておかなければならないと思って、東京国立近代美術館のパフォーマンス会場に足を運んだ。

おふたりの声のあり方に、たいへんなインスピレーションを受けた。パフォーマンスのなかの声はもちろんなのだけれど、むしろアフタートークでの会話のなかの声のあり方にどきりとした。おふたりの声の響きは、言葉が具体的な意味を持つ以前の言語のあり方を思わせた。意味を伝え合うコミュニケーションとしてではなく、自然発生的に発声、発語される言葉というものも存在すると思う。それは意味を伴う言葉というよりも、「響き」とか「言霊」と呼ぶほうが近いと思う。たとえば祝詞や大祓詞とか、祭りや神楽のなかの歌とか、そういったものは、意味としての言葉もさることながら、「呪術的な響き」としての意義をそなえているように思う。吉増さんと飴屋さんの声のあり方は、そこに限りなく近いものだと感じた。そして驚くべきは、それが芸術のなかでではなく、普通の会話レベルで起こっているということだった。意味を伝え合うための話し言葉が、むしろ「響き」として存在している。吉増さんはしきりに「飴屋さんの声が揺れている、声が揺れている」とおっしゃっていた。普段この現代社会を生きていくうえでは、たいていの場合、僕たちの耳は別のチューミングをされていると思う。言葉を、意味を伝達する言葉として認識していくモードだ。だから、飴屋さんの話し声を聞くと、最初はうまく受け取れない。受信可能な周波数と違うからだ。そのことに気がついて、すぐさま耳のチューニングを変えて、しっかり受け取ろうとするのだが、そんな時に自分の内側からある声が響いてくる。

―理解しようとしなくていい。ただその響きをそのままに受け取ればいい。そもそもこれは響きとして存在しているものなのだから。それを全身で受けていればいい。やがて、自分の身体も呼応するように、響きはじめることだろう。